農場コラム

「味わい」が生まれるところ

頒布会便りで告知させて頂いた書下ろしです!
もしかすると近日中に続編を書くかも・・。

以前、私はスタッフによく、『自分の舌を、自分だけの舌だと思わないこと』と、話していました。
あるスタッフが、二毛作さん(東京・立石)でインターンシップを伺った際、オーナーの日高さんに
その話をしたらしく、後日、その事で日高さんにからかわれたのを覚えています。
これは、味覚の判断が出来る様に自分の味覚感をいつも偏りのない場所に置き、整えておくこと。
そして、その為の食生活を送ること。意識下の好みではなく、味わいを体感できる身体を作ること。
それが出来て初めてプロといえるし、私たちにはお客様への責任がある。という意味があります。

偏らない味覚を保つには、意識した丁寧な毎日の食生活が大切です。
それは、正確な味の判断をする為の日々鍛錬です。
綺麗な調味料や油を使うこと
添加物やアミノ酸を取らないこと
丁寧に育てられた食材を使うこと
自分の為の料理を作ること
我と切り離して、体感を重んじる仕立てにしていけば、自分に必要な塩分や糖分、栄養素等は
「心地」として、身体が教えてくれます。

美味しいお芋を作る上でも、味わいの情報をお伝えする上でも、こうした自分の体感を育てることは
とても重要だと思っています。

時々、プロの料理人さんで、「熟成じゃがいもは甘いから、好まない。使わない」いうご意見を
お持ちの方がいらっしゃるのですが、「糖度」は、私が考える熟成じゃがいもの6つの指標
(糖・粘・粉・香・水・アミノ酸)の中の一つにし過ぎません。
※全ての熟成が甘みを伴うものではないことを、私は繰り返しお伝えします。
熟成は複数の要素で成り立つものです。
「甘さ」を否定すると、その方は「究極の粘り」を永遠に知らずに終わってしまうのです。
一つを否定すると、真実全体を手に入れる事はできません。
あくまでも、その料理の表現に必要な味わい、料理のトラディショナル性、プロダクツとしての
側面を否定するものではありませんが、自分の目線ではなく、食材の声に耳を傾ける事で、
世界は大きく広がる様に思います。
私自身は、先入観を持たない心で素材(じゃがいも)と向き合うことが、真実を掴む最短距離だと
思っていますし、その為には常に自分を俯瞰することが必要だと思います。

更に今、じゃがいもに関してもインターネット上の情報は紛い物が多く、お金を出さないと
本当の情報をを手に入れられない時代になってしまった様に感じます。
だからこそ、生産者がお客様に農産物と共にお渡しする「生産現場と味わいの情報」の
信ぴょう性や有益性は、今後、農産物の販売においてますます重要になるのではないでしょうか。

 

さて、情報として「味わいを伝える」事を意識すると、当然、言葉が必要になります。
5年程前にある勉強会で、「美味しさとはなにか」というお題を頂いたのですが、
その際、仕事柄「美味しさ」を理解しているつもりが、上手く言語化できない自分に気が付きました。
これは、それ以後、私の研究テーマの一つになっています。

数年前に、その答えとしてピラミッド状の一つの体系図を作りました。
当時の私はそこそこ良い感じで仕上がったと甘い事を考えていたのですが、
丁度その頃、学芸大のリ・カーリカさんのイベントで、HIBANAの永島さんと同席する機会に
恵まれて、それを見て頂いたところ、別れ際に、「ヒエラルキー図をありがとうございました。」
とお声がけ頂いてしまい、(じつは)大ショックを受けました。
本来、味わいの体感は内に内に向かって感じなければならないものであるのに、
ベクトルがある事自体、何かが間違っている様な気がしたのです。
そこから内観という修業がまた始まりました(涙)

美味しさの体感について私が長く悩んでいたのは、味わいを感じる際の人的・物的環境や
地域性など人として生き育つ中で刷り込まれた味覚の記憶を、実際の味わいと
どう関係付けていくかでした。

添加物の本をお書きになっている安部司さんが、関係図を基に、味わいや添加物について
理解と消費行動は必ずしも一致しないとお話されますが、
私も味覚と本来の味わい、意識と行動には大きな隔たりがあると考えています。
例えば、「皆で食べると美味しいね」や、有名なレストランで食事を取るのが日常の方が
日常食に拘らない乖離、同じ料理でもレストランで食べるのと家で食べるのでは
味が違うように感じる、高級品は本当に身体に良く美味しいのか、など。

最近、私は、こうした全ての影響を受けるものをひっくるめて考えていった先にあるのは
味覚ではなく人の「心」なのだと気が付きました。
今の私達の“美味しさ”の大部分は、環境の影響を受けた「心」が作っている、とも思えます。

ただ、プロとして意識しなければならない本当の味わいは、ずっとその先の先にあります。
心の影響を受けない「体感」に近づいた時に見えてくるもの。
「味覚」と「味わい」は別のものです。
味覚の鋭さというのは、味わいを感じられて初めて生きるものではないでしょうか。

最近の私は、ようやく美味しさを言語化でき始めた様な気がしていて、
あのピラミッドの体系図は、丸い図へと進化しています。
とはいえ、まだまだ学ぶ事が沢山あるので、気付きも沢山あるはず。
だから、きっと今のこの文章も、私にとって、直ぐに古いものになっていくでしょう。

新しい味わいを感じられる自分を、楽しんでいく。
そんな風にありたいです。

村上 智華

二毛作さんのポテサラ

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